相模国三ノ宮・比々多神社

御祭神・御由緒・御神寶

御祭神

主祭神

御祭神

豊斟渟尊 トヨクムヌノミコト
(またの名を豊国主尊 トヨクニヌシノミコト)

国土創造の神さま 大地・開発・発明・創造

天明玉命 アメノアカルタマノミコト
玉造りの神さま 不思議な霊力発揮・子宝

稚日女尊 ワカヒルメノミコト
機織りの神さま 衣料

日本武尊 ヤマトタケルノミコト
叡智と武勇の神さま 出世・開運・除災・交通

相殿神(あいどのしん)

大酒解神 (大山祇神)オオサカトケノカミ
酒造りの神さま 酒類業・山火鎮護

小酒解神 (木花咲耶姫)コサカトケノカミ
縁結び・子授安全


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御由緒

御由緒1

比々多神社の歴史は大変に古く、神社境内地・近隣より発掘出土した遺跡遺物(いせきいぶつ)などから推測すると、約1万年以上遡(さかのぼ)ることができます。論より証拠、発掘された縄文時代中期の環状配石(かんじょうはいせき=ストーンサークル)の「立石」(たていし=メンヒール)は祭祀遺跡(さいしいせき)の御神体として原初的な神社の信仰、古くからの聖地信仰(せいちしんこう)の指標(しひょう)を現しているといえます。

「社伝記」(しゃでんき・天保5年・1834年)によりますと、御鎮座(ごちんざ)は初代神武(じんむ)天皇6年(紀元前655年)、人々が古くから祭祀の行われていた当地を最上の地と選び神を祀る社を建立し、相模国の霊峰大山(れいほうおおやま)を神体山(しんたいざん)として豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト)を日本国霊(にほんこくれい)として祀(まつ)ったことにはじまるといわれています。

第10代崇神(すじん)天皇7年には、神地(しんち)「神戸」(ごうど)を賜り、第36代孝徳(うとく)天皇・大化元年(645)、現在相殿(あいどの)に祀られている大酒解神(オオサカトケノカミ)・小酒解神(コサカトケノカミ)二柱が合祀(ごうし)の折に、「鶉甕」(うずらみか)と称される須恵器(すえき)が奉納されたといいます。次いで、第41代持統(じとう)天皇朱鳥(しゅちょう)6年(692)、相模国(現在の神奈川県横浜市の一部より以西)の国司(こくし)・布施朝臣色布知(ふせのあそんしこふち)によって社殿の改修が行われ、木彫り狛犬(こまいぬ)一対が奉納されました。

なお、この「うずらみか」と「狛犬」は、ともに『新編相模風土記稿』〔しんぺんさがみふどきこう(江戸時代の官撰地誌で1841年成立)〕に掲載されています。

天平15年(743)、竹内宿祢(たけしうちのすくね)の後裔(こうえい)・紀朝臣益麿(きのあそんますまろ)を初代宮司に迎え、同時に第45代聖武(しょうむ)天皇より荘園(しょうえん)を賜りました。

第53代淳和(じゅんな)天皇・天長9年(832)、国司・橘朝臣峯嗣(たちばなのあそんみねつぐ)を勅使(ちょくし)として当国総社(とうこくそうしゃ)「冠大明神」の神号(しんごう)を天皇より賜りました。この神号は、『吾妻鏡』(あづまかがみ)建久(けんきゅう)3年(1192)8月9日条にもみえます。

すなわち、征夷大将軍源頼朝公(せいいたいしょうぐんみなもとのよりともこう)が妻政子の実朝(さねとも)出産に際し、その安産祈願のため相模国の社寺に神馬(しんめ)を奉納されたとう記事の中に、当社が「三宮冠大明神」の名を以て列記(れっき)されています。

御由緒2

第60代醍醐(だいご)天皇の御代(延喜年間)、全国主要神社の名簿『延喜式神名帳』(えぎしきじんみょうちょう)編纂(へんさん)にあたり、当社も2861社の内に登載(とうさい)されました。以後、「延喜式内社」として、国幣(こくへい)という幣帛(へいはく)を神前に奉(たてまつ)る神社に定められました。ちなみに、相模国には13座(ざ)あります。
「式内十三社」を見る

当国を本拠として東国を治めたた源頼朝公は、元暦(げんれき)元年(1184)、大規模な社殿再建を行い、文治(ぶんじ)元年(1185)国土泰平祈願(こくどたいへいきがん)のための御願書(ねがいしょ)を奉(たてまつ)りました。

南北朝、室町時代になると戦禍によって神領(当時は今の約4倍・17,000坪)の大部分を失いました。また、明応年間(1492〜1501)には、社殿を兵火によって焼失し、天正のはじめ社地を埒面(らちめん)から現在の地(旧神主屋敷)に移転し神さまを遷(うつ)しました。

御由緒3

天正19年(1591)、当社が相模国の名社であることを知った徳川家康公によって社領10石が寄進され、ようやく社頭の復興をみるに至りました。以後秀忠公・家光公以下12代の将軍から神領の寄進(きしん)〔徳川歴代将軍御朱印現存〕がなされ、明治維新に至りました。

享和2年(1802)、神祇白家(じんぎはっけ)【白川家】の門人(440社余)に附属し、「社の他に祝部(はふりべ)以下社家在之」(『諸國神社附属帳』文化13年改)とあり、社家社人(しゃけしゃにん)を多く要したことが伺(うかが)えます。

明治6年(1873)、社格を2大区6小区の郷社(ごうしゃ)と定められ、16ヶ村の総鎮守(そうちんじゅ)となりました。明治41年(1908)、神饌幣帛供進(しんせんへいはくきょうしん)社に指定されました。

大東亜戦争に突入すると、境内の宮鐘(きゅうしょう)も資源回収のため供出(きょうしゅつ)を余儀なくされましたが、戦後、氏子崇敬者の幸福と平和を願って、人間国宝・香取秀真(かりほつま)氏に新鐘の制作を依頼しました。昭和25年(1950)、香取秀真・正彦父子制作により第2の宮鐘が完成し境内に設営されました。

現在は、献幣使参向(けんぺいしさんこう)指定神社に定められ、事始めの大神さまとして、近隣はもとより広く関東一円の人々より篤く崇敬されています。


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御神寶

鶉甕(うずらみか) 神奈川県重要文化財

御神寶1

『新編相模風土記稿』に、「鶉瓶と名付口直径六寸八分高一尺五分、石凝姥命(いしこりどめのみこと)作と云傳ふ、旱魃の時は此器に水を盛り神前に供して雨を請ひ、又霖雨(長雨)の時は社地四隅の土を盛りて晴を祈るに験あり」と記され、古墳時代から平安時代にかけて作らた須恵器の系統を引き、灰色を呈しています。
毎年11月に、本殿より出御し、沢山の御神水を汲み上げ、酒解の神さまを称えて酒祭が執行われます。

狛犬一対 伊勢原市重要文化財

御神寶2

「天保社伝記」には、「何人ノ作ナルコトヲシラズ」とありますが、高さ一尺三寸余り、古を帯びていて、石・銅・鉄製にはない木彫りならではの柔軟な味わいが深く、当時(7世紀頃)の彫刻技術を今に伝えます。頭の巻毛が簡素で、四股は長め、現在の狛犬は頭が大きいのに比べ、身体の均整がよく調和して、逞しさの中にも軽快さと品位が感じられます。関東最古の狛犬ともいわれています。


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崇敬会

崇敬会

御祭神(ごさいじん)の高き御神徳(ごしんとく)のもと、日々息災(そくさい)に充実した生活送れることを感謝、併せて、比々多神社の発展に寄与することに努める崇敬者の集いです。会員には、年一度の崇敬者祭への参列、元旦祈祷神札撤下(がんたんきとうふだてっか)の授与、参拝の際、特別の便宜などの特典があります。どなたでもご入会できます。

年会費 一口5,000円


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