相模国三ノ宮・比々多神社

地名の由来

当社旧地名

相模國大住郡日田郷三宮宮前埒面(らちめん)

古代の地名を知る上で重要な史料となる『倭名類聚鈔』(わみょうるいじゅうしょう・10世前半、日本最初の分類体の漢和辞書)に、相模國大住郡に「日田」郷という地名がみうけらます。これより以前、奈良のはじめ、和銅6年(713)に当時の朝廷が、全国の地名(郡名郷名)は好字2字で表記するよう改める指示がを出されたので、この時、「比比多」より「日田」に改められています。それ(8世紀初頭)以前は、「比比多」の地名であり、土地の神祀る社として比比多神社は存在します。

◇社有地:約4千坪 その他境外山林


ページの冒頭へ

神社に由来する地名

三之宮(さんのみや)

『新編相模風土記稿』に「当所は、三宮明神鎮座の地なれば即ち村名とす」とあり、相模国の由緒ある神社を勅使が参向する順を称しました。

竹ノ内(たけのうち)

竹内宿祢(たけしのうちのすくね)の裔孫(えいそん)、初代宮司・紀朝臣益麿(きのあそんますまろ)の別邸があったことから小字名となりました。

御所(みしょ)

当社裏斎館の跡をいいます。

領家(りょうけ)

当社の荘園・神領の役所があったことから地名となりました。

皇家(こうけ)

国司が当社へ奉幣のために参向する際の仮家があったことから地名となりました。

神戸(ごうど)

崇神天皇7年、天皇より当社に神戸を賜わり、その神領地がそのまま地名となりました。

真田(さなだ)

天平15年、聖武天皇より荘園を賜り地名となりました。

血見せ坂(ちみせざか)

坂が急なため神輿渡御の際、怪我人が多く血を見なければすまなかったことからこの名が きました。

化粧塚(けしょうづか)

参道口と神揃山入口の2ヶ所にあって、国府祭の折、御神輿を整え、神官は衣冠束帯を旅装に着替え、供人も是より旅姿となります。

神揃山(かみそりやま)

神集山ともいいます。端午に、一宮寒川神社、二宮川勾神社、三宮比々多神社、四宮前鳥神社、平塚八幡宮の五社の神々の御神輿が集い坐すことから名が付きました。

埒面(らちめん)

天正19年(1591)以前、社殿のあった旧境内地(7町歩)をいい、大祭の折に、鉄棒(かなぼう)を組み警護する事を埒を組むといいます。


ページの冒頭へ

  • ブログ『三ノ宮通信』
  • 神社の『なぜ? なに?』
  • 神社トリビア 今日は何の日?
区切り

twitter

facebook

お問合せ

リンク